会長インタビュー

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父の背中から学んだ、
成長をもたらす
「攻め」の経営

大阪螺子製作所 取締役会長 西田 陽一

大阪螺子製作所 取締役会長 西田 陽一

1964年 2代目社長就任

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会社の礎を築いた
創業者・西田己喜蔵 翁

2019年は創業者西田己喜蔵氏の55周忌の年です。
初代社長についての思い出と大阪螺子製作所の成り立ちをお聞かせください。

初代社長である父親の己喜蔵は、根っからの職人でした。私が生まれた翌年の1935年(昭和10)、大阪市大正区の長屋を工場に改造し、農業用発動機の特殊ピンを製作したのが弊社の始まりです。創業当時の名称は『大阪ピン製作所』でした。その頃の大正区は、町工場や造船関連施設が多く、労働力を集めやすい環境でした。
まもなくして戦争が始まり、1944年には海軍の指定軍需工場となり、翌年には本社の設備の一部を宝塚市生瀬の武庫川河川敷に移動しました。開設したての疎開工場は、不幸にも台風で流されてしまい、本社工場は空襲で全焼してしまいました。
1945年8月に終戦を迎えた直後、己喜蔵は、茨木市内に『大阪産業社』を発足させます。大阪ピン製作所の事業一切を引き継ぎ、焼け跡から資材などを移しての事業再開でした。戦後の日本経済を引っ張っていった産業の内の一つが繊維産業であったことから、繊維機械の部品や自動車のエンジン部品等も納めていましたが、電気も材料も不足していた当時の日本の状況ではまともに操業できず、一時は倒産寸前にもなりました。

戦後復興の道のりは大変だったのですね。
ピンチを乗り越えるきっかけや、「ネジ」を製造し始めたのはいつ頃だったのでしょうか。

『株式会社大阪螺子製作所』を設立したのは、大阪産業社の創業から5年後の1950年のことです。同じ茨木市の土地で始まった大阪螺子製作所が軌道に乗れたきっかけは、朝鮮戦争による特需景気でした。昼夜生産に追われる日々の中で息を吹き返していきました。
また、急速に日本経済が発展し、汽車・船・自動車等の物流需要が高まる中で、オート三輪部品を納入するようになり、自動車業界の進展とともに部品メーカーとして発展。自動車関連部品を製造する現在の会社の形へと成長しました。
初代社長の己喜蔵は、国内産業の発展を支えるために、日本生産性本部が主催する「第1回欧米視察団」に参加しています。その頃から、海外の優れた技術を積極的に取り入れるようになりました。

戦前・戦後の激動の時代を生きた初代社長はどんな人柄でしたか。

一言で言えば人格者です。また、創業者として卓越した経営感覚があり、営業、技術、総務などすべての要素を持ち合わせたオールマイティな人物でしたね。会社を立ち上げた人間にしか分からない「お金の使い方」というものが良くわかっていたようです。
自宅にもよく人が集まってきていて、貴重な情報交換の場になっていましたが、経営には情報が欠かせないということを親父の背中から学びました。

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大阪螺子製作所の土台を固めた
西田陽一会長

西田会長が初代から会社を引き継がれたのは1964年(昭和39)。
日本全国が湧いた東京オリンピックの年ですね。

父親が享年57歳で亡くなり、会社の跡を継ぐことになった時、私は30歳でした。とにかく、初代が築いた土台をつぶさないよう心がけました。東京オリンピックの頃は高度経済成長の真っ只中で、弊社もその波に乗り、なんでも作れば売れました。オート三輪に加え、エアコンや洗濯機などの白物家電のネジづくりにも着手。集団就職で地方から集まってきた若者を雇い、機械をフル稼働させていました。
その当時の従業員数は280人ほどで、1日の生産量は約5万個だったでしょうか。それが今では、従業員200人で1日に500万個を生産していますから、生産性は約100倍に向上しています。これは、先進的な工作機械を次々と導入した結果です。
1980年には、用地不足の茨木の工場から事業の拡大を図り、現在の枚方の土地に本社工場を移転。工場設備を地道に拡張し、設備投資と償却のサイクルを効率よく回しながら、うまく時代の波に乗ることができました。

社長時代には、海外製の機械の導入を積極的に進められたそうですね。

昔から機械そのものが好きで、世界中に出張して“いい機械”があればその場で買ってくることをしょっちゅうやっていました。将来につながる積極的な設備投資と思い、アメリカに出張した際には、当時の年商分ぐらいの機械(最新鋭FORMAX)を買いつけたことがありましたが、あまりに多額の支出だったため経理に叱られましたよ。
とは言え、バブル経済の波にも乗り、順調に業績は伸び、それらの機械も結果的に利益に大きく貢献しました。現在も堅実・健全な経営を継続中ですし、波乗りのタイミングは間違っていなかったと思います。

海外進出にも挑戦されていますね。

現在はタイに工場を構えていますが、過去には、マレーシアや中国での合弁事業、ドイツやアメリカの会社と業務提携したこともあります。色んなことをやりましたが、商習慣や価値観における日本との違いに驚かされたこともありました。
結局このような提携関係は、人と人との信頼の上に成り立つものです。信頼関係が築けなかった時には早めに撤退することもありましたが、マレーシアの会社とは長く関係が続きました。
弊社で使っていた中古の機械を売却する際、先方に資金がなく、支払いができないということでしたのでタダで譲ったことがあります。ところが、1〜2年経った頃、「西田さんに譲ってもらった機械のおかげで経営を持ち直すことができました。ありがとうございました」と言って、メモ書きしていた機械の値段ぴったりの金額を持って日本にやって来たことがあります。証文もなかったのに、きちんと支払いをしてくれたマレーシアの会社との資本関係は現在解消していますが、海を越えて信頼関係を築くことができたいい経験です。

西田陽一会長
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西田会長がこだわる経営論

会社経営の秘訣はありますか。

私の信念は「商品の売り手も買い手もすべて対等な関係で信頼関係を築く」ということです。弊社の製造する部品がなければ、お客様は製品を組み立てることができません。だから、お客様の求める品質と正確な納期で安定して供給し続けることが最重要です。これは、部品メーカーとしての使命であり、弊社の強みです。
かつて、あるお取引先様が海外進出される際に、安い現地価格での部品納入を求められたことがありました。価格を下げることは、品質を下げることに繋がりかねません。品質を保証するためにお断りせざるを得ない要求でした。
製品の「品質」「価格」「納期」そのすべてにおいて、売り手と買い手の双方が納得した条件で契約をすること。それが長く取引を続けていくための秘訣です。

会社経営には、攻めと守りの両方が必要と言われますが。

会社発展の源は「攻め」です。その姿勢がないと会社は成長しません。まずは先手を打つことです。
会社を引き継いだ当時は、売上全体の7〜8割が一社に偏っていましたが、リスク回避のためにも取引先や取扱い製品を一点に集中させないよう、挑戦するフィールドを拡げました。バランスよく、幅広く取り組んでいくことが会社の基礎を築けた要因であり、経営における「攻め」と「守り」だと思います。

初代から会長へ、会長から3代目社長へと信念は受け継がれています。

2代目の私は、幼い頃から創業者を間近で見てきました。「親の背を見て子は育つ」と言いますが、初代社長である父の苦労は少しだけ理解しています。
創業者一族が経営者を継いでいくことに対しては、いろんな見解があると思いますが、「血筋や先祖を大切にしようという意識が働く」という点で、理想的だと思います。
世の中で創業100年を超える企業はほんの一握りです。一説には、会社の寿命30年とも言われます。やはり、何よりも継続は大切です。
「会社をつぶさないこと、続けることが親孝行の前提。その上で成長させることができれば望外の喜びだ」との信念で経営できたことが、今の大阪螺子製作所の姿と理解しています。

西田陽一会長